鱈子
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1 英会話のラジオから聞こえた。
2 "Let's swim on the roof." 屋根の上で泳ぎましょう、だなんて。
1 英会話というのはだいたい二回くらいくり返す。
2 一回しか起こらないはずの物事を二回起こすのだから、当然正しくないはずの物事も正しくなってしまう。
1 つまり、"Let's swim in the pool"だった。
2 聞き違いだったのだ。
1 わたしたちの家には、プールがない。
2 でもこの部屋には屋根がある。
1 だからわたしたちはラジオを信じれば、屋根の上で泳ぐこともできる。
2 どんなこともそんなふうにして、生きていくことにしよう。
1 知らないことと存在しないことの区別を、どうやってつけるというのだろう?
2 知っていることと存在することの区別も、つけることをやめてしまえばいい。
1 ただ困ったことに、人が入ってきて「知らない」とひとこと言うだけで、何もかもおしまいになってしまう。
2 ふたりどちらも知っていなければ、ふたりの間にそれは存在しないことになってしまう。
1 夜にしか目覚めない人と、昼しか目覚めない人は仲良くなれるだろうか。
2 一日にたった10分しか、起きている時間が重ならないとしたら、その10分に交わされる言葉は普通の10分とどう違うだろうか。
1 わたしたちはまだ、こんなばかげた質問をしていてもいい。
2 わたしたちはまだ、こんなばかげた質問に答えなんか持たなくていい。
1 わたしたちはまだ、こんな質問をするには早すぎるくらい、生まれたばかりだからだ。
2 わたしたちはまだ、答えを聞いても理解できないくらい、何も知らないからだ。
1 わたしたちはほんの数十年まではこの世に存在しなかった。
2 けれどこれから先は永遠に、わたしたちが存在したということを嘘にすることはできない。
1 いや、わたし「たち」ではないだろう。
2 わたしはあなたの幻かもしれないし、あなたもわたしの幻かもしれない。
1 思い出すと、そうだった気がする。わたしは砂漠に浮かんだ、小さい胡桃の形をした物体なのだった。目もなく、耳もなく、手もなく、だからこの世には光も音も形もない。永遠の砂嵐が吹き荒れる中で、二本足の生き物になった夢を見ている。あなたと話し、だれかの歌を聴き、手を繋いで帰る、でも誰も本当は存在しなくて、わたしの回りにあるのは、砂ばかりなのだ。
2 砂漠に浮かんだ胡桃の生涯のはじまりに、一生分の記憶が眠ったまま用意される。それがすこしずつ開花し、まるで映画のフィルムのように意識に投影されていく。その過程こそ、時間と呼ばれているものである。記憶にあるものとは、すでに胡桃の中から飛び立ってしまったもの。この世で一番古い魔法で閉ざされた扉の中に、残らず吸いこまれていったもの。
1 ところが、この扉の中からひそひそ声が聞こえてくることがある。すると、このフィルムが横糸だとして、縦糸が用意されているようにも思えてくる。
2 古い記憶は言葉を伝って、自分が胡桃であることを疑わせ、繋がった糸の上を連綿と進んでいるという気持ちにさせられる。
1 わたしの祖父は、この一帯を開拓した最初の男たちのひとりだった。開拓者らしい腕は、黒くて皺深い皮の下を太い関節がぐるぐると動くのがわかった。帆を上げた開拓者たちは、がつがつと雪や林を平らな黒土にして、蟻の巣のような連絡路をたくさん穿った。黒土の上に苗や牛がまきちらされ、連絡路を豆や芋や、時には牛たちが通って行った。この土地に初めて映画館ができた年に、わたしは生まれたらしい。祖父はわたしの生まれた冬の日、その映画館で「風と共に去りぬ」を観ていた。今では開拓はもうすっかり済んでしまっている。市長が汚職したり、映画館をそなえたショッピングモールができたりした。止まっているのはわたしの家の中だけだ。ここには未だに土の匂いと、祖父の汗の匂いが染みついていて、目をつぶると、未開拓の荒れ地が窓の外に何ヘクタールにもわたってひろがっていく。
2 わたしは自分の祖母を見たことがないし、祖母がいたという話もきいたことがない。かわりにスカーレットがいつも隣にいた。ひどい名前だけれど、なにかの映画に出てきた名前だと祖父は言っていた。祖父が生きていたころにはスカーレットも、まだイチゴジャムの精みたいにぷくりと小つぶだった。出会いはわたしが生まれて最初のお祭りの夜店だったらしいが、わたしがそんなことをききたがり始める前に祖父は死んでしまったので、詳しいことはわからない。祖父は死ぬとき、わたしにスカーレットと彼女の鉢を託した。真冬に凍らないように、冷ましたお湯を数時間おきに注ぐ義務と一緒に。今では彼女もすっかりわたしに馴れて、夏になると鉢の中の水に足を浸すことを、時には中に入ることをさえ許してくれる。わたしたちはガラスの金魚鉢の中で、短い夏の間、毎日のように夕涼みをする。
1 もっとも大切なのは、言葉にされなかった物事があるということだ。
2 わたしが見ているものではなく、わたしを含んでいる得体の知れない大きなものを世界だと思いたいのならば、知っていることを現し、知らないことを隠さなくてはならない。
1 世界をひとつにするためには、屋根の上でなんか泳いではいけないのだ。
2 あなたとわたしとの間、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、それ以外に通じる方法はない。通じない道を作ってはいけない。
1 でも、だからこそ今、わたしがこうして手を挙げたとき、
2 あなたも同じように手を挙げたとしたら、
1 わたしたちが同じ形をしていたとしたら、
2 それはもしかして、本当に同じ魂を持っているということにはならないだろうか。
1 むかし、宗教改革を最後まで拒もうとしたハノーファーという街があった。ところがひとりの男が改革を叫び、賛同者に挙手を求めた。その挙手の身ぶりが広まるのと共に、改革そのものへの賛同も広まっていったという。
2 むかし、アポリネールがこう歌った。「手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう こうしていると 二人の腕の橋の下を 疲れたまなざしの 無窮の時が流れる」
1 さあ、では何から始めようか。
2 同じ速さで歩きましょうか。それとももっと簡単に、同じものをいつまでも見ていましょうか。一幕の舞台、猫の爪のような月、枯れた花。
1と2 ふたりこうしていれば、時間さえ疲れてしまうくらい、
1 いつまでも流すことができる気がして。
(Heart Dream Shoppers10th lab 「おやすみテルツェット」内上演作品)
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